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丘城 1万年さかのぼるラトビア文化の歴史

 ラトビアの丘城が初めて歴史書に書かれているのは、オラフ卒いるスウェ−デンの海賊がクリッシュ地方とユールピルスの略奪、アプーレを攻撃した853年からである。
丘城(または砦)は高い丘、半島、時には湖や沼地の島に建てられ、大昔の要塞居留地であった。丘城には、一般的に、険しい側面、平らな頂上、要塞壁と堀、中腹にはテラスがあった。知られているラトビアの丘城は470あるが、完全に調査されているものは少ない。クルゼメとゼムガレにある平らな頂上の周りを、高い要塞壁で囲った丘城はよく知られている。低い要塞壁と小さな堀のある丘城は、テラスのある丘城とともに、ラトガレ独持のものである。壁やテラスのない丘城は、古いものと考えられているが、それらの幾つかは12、13世紀には人々が住んでいた(たとえばプリエクリュ サールマ丘)。
 13世紀から歴史書に書かれている丘城(イエルシカ、メジョトネ、テ−ルヴェテ等)の多くは、平地に高い要塞壁を備えていた。ドレス・クラニュ−ジ丘城はこのタイプだが、青銅器時代の終わりに築きあげられ、紀元後、最初の10年は放置された。城の大きさや場所から判断すると、これらの主な目的は外国からの侵略や地方戦争に対して、種族の土地や地域を守ることであった。幾つかは主要交通道路の近くや、土地や地域の中心に位置しているものもあるが、外国の侵略に対して裕福な地を守るため、住民の少ない地域に造られた。丘城の守備能力はかなりなもので、周りの戦いはすさまじいものだった。幾つかはインドリキスの正式記録やアトスカニュの記録に書かれている。城の周りに町が出現した。現在のリ−ガ、カンダヴァ、サビレ、バウスカ、ツェ−スィス、ルザァ等が始まりと考えられる。