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▲少数民族と荘園建築
少数民族リヴス人ラトヴィアの荘園建築


リヴス人

 リヴスは、リボニア人としても知られるが、何世紀もの間、クルゼメとヴィゼメに住んでいたフィンノー・ウグリック人である。リヴスは紀元前3300年頃に、今はラトビアとなっているバルト海周辺に住んでいたフィンランド人と関係がある。リーヴ語は紀元前1000年あたりに発達した。独特のリーヴ文化は10世紀頃に現れたと考古学者は考えている。
 リヴスは、16世紀から18世紀の領地戦争と1710年及び1711年にラトビアを襲った黒疫病(ペスト)で、大きな損失をこうむった。リヴスの言語はリーガから消えた。16世紀にその周りから消え、19世紀にはヴィゼメから消えた。クルゼメにいるリヴスの数は1915年に約3000人であったが、集落にとって第1次世界大戦が致命的であった。1915年にドイツ軍は海岸線を占領し、内陸10km以上の所へ24時間以内に移動することを命じた。多くの人は追放され、大戦後に残ったのは僅か1000人だった。
 1970年代にリーヴの知識人がリーヴの文化を正当化し、協会を再建した。1991年、国はリーヴ海岸として知られる所を特別な文化と歴史の保護ゾーンに定めた。リーヴ文化センターがオープンした。1999年の終わりに、ラトビアの内閣は長い間の悲願であったラトビアの民族リヴスを承認した。